気分の近代化 ー 春愁三首の発見

大伴家持
生誕 養老4年(720年)頃
死没 延暦4年8月28日(785年10月5日)

天平勝宝5年(753)2月23日に二首(家持33歳)

原文:春野尓 霞多奈毘伎 宇良悲 許能暮影尓 鴬奈久母
春の野に 霞たなびき うら悲し この夕影に うぐひす鳴くも
                       (巻19・4290)
はるののに かすみたなびき うらがなし このゆうがげに うぐいすなくも

原文:和我屋度能 伊佐左村竹 布久風能 於等能可蘇氣伎 許能由布敝可母
わが宿の いささ群竹(むらたけ) 吹く風の 音のかそけき この夕(ゆうべ)かも          
                       (巻19・4291)
わがやどの いささむらたけ ふくかぜの おとのかそけき このゆふへかも

天平勝宝5年2月25日に一首

原文:宇良々々尓 照流春日尓 比婆理安我里 情悲毛 比登里志於母倍婆
うらうらに 照れる春日に ひばり上がり 心悲しも ひとりし思へば
                       (巻19・4292)
うらうらに てれるはるひに ひばりあがり こころかなしも ひとりしおもえば

左註:
春日遅々鶬鶊正啼|悽惆之意非歌難撥耳|仍作此歌式展締緒|但此巻中不稱|作者名字徒録年月所處縁起者|皆大伴宿祢家持裁作歌詞也

左注:
春はまだ遠しとは言えども、ウグイスやヒバリは鳴(啼)いている。傷んだ心は歌でなければ払いがたい。よってここに歌を作り、結ばった心をのべた。ただこの巻の中で、作者名をのべず、年月、場所、由来のみを記した歌は、皆、大伴宿禰家持が作った歌である

*転載元:万葉集ナビ

左注に書かれている
悽惆(せいちよう)の意(こころ),歌にあらずは撥(はら)い難し。よりて此の歌を作り,式(も)ちて締緒(ていしよ)を展(の)ぶ。
「悽惆の意」とは「痛み悲しむ心」であり
「締緒」は「しめお」とも読み「物を締めるためのひも。笠をかぶるときなどに締めるひも」のこと
「展ぶ」は「のばしひろげる」
家持のこの左注をどう読み取るのか

家持のこの三首は長い間万葉集の中に埋もれており、これが評価されるのは大正時代(1920年代)に入ってからのことだそうで、いわゆる大正デモクラシー、大正浪漫の気分のなかに芽生えた近代的な感性の発露に合致したということでしょう。

短歌のこと 大友家持「春愁三首」の独自性 からの転載
窪田空穂の評:
「気分と言葉と縺れ合って、ゆるやかに、甘い悲しみを詠っているところ、千年の後の今日の歌にも似ている。(昭和57年『まひる野』)」

「気分に象(かたち)を与えた歌。写生の歌ではない。(春愁三首は)家持の特色の最もよく現れた歌」

折口信夫の評:
私どもが初めて此歌を見つけたのは、今から30年もっと前のことである。こういう心の微動を表すことが唱導せられだした頃のことだ。其頃、この歌を見つけたのである。私の驚きを察してもらいたい。今考えてみても、不思議なその時の感じは印象している。(ママ)

それからこれだけ年が経っても、此歌は少しも新鮮さを失っていない。ーーー昭和26年「婦人之友」

折口の啄木評価もまた「心の微動」捉えたことへの驚嘆だった。
「それまで我々が表現しようともしなかったものがとらえられている・・・
 つまり啄木が、新しい発見をしたのだ。心の底に潜んでいる微動を捉えることができたのだと、おどろいたものだ」
啄木と折口 マネとセザンヌ
啄木の処女歌集『一握の砂』が出版されたのは明治43年(1910年)のことだ。それからおよそ10年後に家持の『春愁三首』を同じ文脈上で再発見した。
それはまさにセザンヌがマネの『オランピア』について語った
「それを見るまでは我々の感受性が知らずにいたひとつの道を通ってその真実に我々を導いてくれる」
「導いてくれる真実」とは折口のいう「心の底に潜んでいる微動」であり「気分の最先端」のことだ。

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