金屏風

金屏風は浄土信仰に由来する
丸谷才一
初出:隨論 六日のあやめ(國華 第1331號 第112編 第2冊 2006年)
2011年に出版された「樹液そして果実」という評論集に再録
「六日のあやめ」なんていう謙遜されたタイトルを付けてますが、その内容は圧巻です。
丸谷さんが敬意を表した本家は
『新発見の四季草花小禽圖屏風についてー中世末期狩野派の「金屏風」の一例の様式分析及びその圖像についての注解ー』(國華1044〜48号 1981〜1982年)という論文を発表したベッティーナ・G・クラインですね。
自分がそこに思い至るより20年も前に「浄土教教典に記述されている極楽浄土を描写したものがこの金屏風絵だ」と論じたこの学術論文の再発見、再評価への期待も込めての「六日のあやめ」なのでしょう。

この金屏風というのは「金地に極彩色の花鳥画」のことで、そこには人物も季節も描かれていない。
もっとも丸谷さんも、「彼女の論文を読むまでは一つの画面に四季がいりまじっている」と思っていたそうですが、そうではなく「浄土には季節が存在しない」という彼女の指摘に
「宗教的永遠の寂莫たる趣、時間の喪失にふさわしいような気がする」
と彼女の解釈に感じ入っています。

金屏風に転写された教典の描く浄土の風景とは
アーナンダよ。かの<幸あるところ>という世界は、種々のかぐわしい香りがあまねく薫っており、種々の花や果実が豊かであり、宝石の木々に飾られ、如来によってあらわし出された、妙なる音声をもつ種々の鳥の群れが住んでいる。また、アーナンダよ、かの宝石の木々には種々の色、多くの色、幾百千の色がある。かしこには黄金色の、黄金でできた宝石の木々があり、銀色の、銀でできたものもあり、瑠璃色の、瑠璃でできたものもあり、水晶色の、水晶でできたものもあり、琥珀色の、琥珀でできたものもあり、赤真珠色の、赤真珠でできたものもあり、瑪瑙色の、瑪瑙でできたものもある。また、金と銀の二つの宝石でできているものもあり、金と銀と瑠璃の三つの宝石でできているものもあり、金と銀と瑠璃と水晶の四つの宝石でできているものもあり、金と銀と瑠璃と水晶と琥珀の五つの宝石でできているものもあり、金と銀と瑠璃と水晶と琥珀と赤真珠の六つの宝石でできているものもあり、金と銀と瑠璃と水晶と琥珀と赤真珠と第七の瑪瑙との7つの宝石でできているものもある。
アーナンダよ。かしこには金でできている木々があって、根や幹や小枝や大枝や葉や花は金でできており、果実は銀でできている。銀でできている木々があって、根や幹や小枝や大枝や葉や花は銀でできており、果実は瑠璃でできている。瑠璃でできている木々があって、根や幹や小枝や大枝や葉や花は瑠璃でできており、果実は水晶でできている。水晶でできている木々があって、根や幹や小枝や大枝や葉や花は水晶でできており、果実は琥珀でできている。琥珀でできている木々があって、根や幹や小枝や大枝や葉や花は琥珀でできており、果実は赤真珠でできている。赤真珠でできている木々があって、根や幹や小枝や大枝や葉や花は赤真珠でできており、果実は瑪瑙でできている。瑪瑙でできている木々があって、根や幹や小枝や大枝や葉や花は瑪瑙でできており、果実は金でできている。
アーナンダよ。このような木々がある。根は金でできており、幹は銀でできており、小枝は瑠璃でできており、大枝は水晶でできており、葉は琥珀でできており、花は赤真珠でできており、果実は瑪瑙でできている。
ー 浄土三部経(上) 『無量寿経』岩波文庫


とにかく教典による浄土の景色描写は黄金づくし、お宝づくしです。
この浄土三部経を訳した仏教学者の中村元によれば、
少なくとも『無量寿経』『阿弥陀経』の二教典の成立時期は、クシャーナ王朝下の西北インドで、2世紀頃だと推定し、またこの夥しい黄金づくしの「極楽浄土はクシャーナ王朝時代の富裕な資産家の生活欲求を反映しているのだろう」とその解説の中で言及しています。
仏像の出現が、クシャーナ王朝下のガンダーラで仏教とヘレニズムとの出会いによって生み出されたように、クシャーナ王朝下での仏教と黄金文化(黄金・宝石への執着)との出会いが極楽浄土の風景描写を生み出したと考えるのは納得のいく説のように思えます。

下の金屏風は狩野元信作の「四季花鳥図屏風(しきかちょうずびょうぶ)六曲一双 白鶴美術館蔵」の左隻ですが、タイトルからも分かるように、これが「浄土」を描写したものだという解説はありません。

四季花鳥図屏風
四季花鳥図屏風(左隻)狩野元信筆 白鶴美術館蔵 (狩野越前法眼元信生年七十四筆 1549年

この屏風は狩野元信74歳の時の作となっているそうで、西暦で言うと1549年。宗達や光悦(1558)の生まれるちょいと前、光琳の生まれる(1658)およそ100年前に描かれた金屏風です。
ベッティーナ・G・クラインは論稿した『金屏風』の制作年代を16世紀前半〜中頃だろうと推定していますが、現存する金屏風の制作年代の下限はこの時期だそうです。しかし、文献的にはさらに100年ほど遡り「1402年 3点の金屏風が『明』に送られた。(善隣国宝記)」という内容の記述を確認できることから、それ以前からすでに金屏風は描かれていたようですが、これらの金屏風は主に明国や朝鮮王朝に好まれ、その殆どが流出して日本国内には残っていないということなので、果たしてこれらの金屏風がその150年後に描かれた狩野元信の金屏風と同じ様式のものであったのかどうかは不明ですね。
浄土を描いたこれらの金屏風が葬式や祝祭儀式などに使用されたのであろうことは容易に想像がつきますが、丸谷さんも指摘しているように(疑問なのは)
浄土教教典に描写された浄土の景色を描くなら、なぜ黄金の樹木、七宝の樹木や果実を描かず、金箔地を背景に色とりどりの花鳥を描くという発想の転換が起きたのか? 初期の金屏風には教典に描かれたままを描写した浄土が、どこかの時点で金箔地を背景にするという転換が起こったのか?、、、興味は尽きませんが、、一体誰が考案したのか? 天才ですね。

どういう制作上の経緯があったか詳しくは分かりませんが、宗教的絵画として15世紀初頭から始まった金屏風絵200年の時の果てに宗達の「蔦の細道」があるわけです。
室町時代というのは北山・東山文化時代とも区分されますが、大雑把に言って、京都公家のリーダーシップによる「平安王朝的な雅への憧れ」と「中国発祥の禅的な芸術感覚の受け入れ」つまり水墨画世界ということですが、何れにせよ、公家・寺社・将軍あるいは守護大名が纏ったこうした伝統や教養という堅苦しい装飾は15世紀入って台頭してきた「新興民衆」にはあるはずも無く、この「新興民衆」のウブな心情や本来の欲求は前時代という束縛からの解放であり逸脱であったことは容易に想像できるでしょう。逸脱という生の欲求というものはいつの時代にも官能的なものです。こうした時代欲求を受けて金地極彩色の花鳥画の中に官能が花開き、安土・桃山に入り金屏風から宗教色が一掃されるという一大エポックを迎えた、それが「蔦の細道」ですね。丸谷さんは「源氏物語」にも造詣が深かったですが、どこかで「源氏物語は、どんどん父権社会化していく平安王朝文化への母権文化からの最後の異議申し立てという側面があるのではないか」と語っていましたが、そうした見方からいけば、宗達の「蔦の細道」は「日本的美性への回帰」ヨーロッパでいうルネッサンスが起きたんだろうと思います。ここにあるのは官能と自由、近代というコインの裏表です。

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